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シリーズ「淡海の城」(3)−高野城(たかのじょう)(滋賀県東近江市)
 滋賀県内に残る城跡の第3回目に紹介するのは高野城です。さすがの城マニアの方でもこの城はご存じない方が多いのではないでしょうか。滋賀県中世城郭分布調査報告書にも確かな位置は報告されていません。
 平成14年度に永源寺町教育委員会から団体営圃場整備に伴う耕地整理が行われるに当たり、石垣の一部を見て欲しいという要請がありました。石垣は高さ約3m、長さ約60mに及ぶもので、後世の補修箇所がかなり見られますが、60pから1m大の大石を使った野面積みです。石垣の前面には幅2mほどの武者走り状の通路が有り、虎口や土塁の一部も残っています。周囲は茶畑になっており、かなり深い所まで開墾されているようで、耕作土や武者走り状の通路に16世紀末から17世紀にかけての信楽焼擂り鉢の破片や輸入陶磁器の破片が散在しています。遺物や石垣の構築手法から織豊期に築かれたもので、高野城の遺構の一画であると判断しました。(当研究所では、このように全国どこでも要請がありましたら石垣の調査に参ります。)
 さて、高野城の沿革ですが、近江の古刹の一つである臨済宗の永源寺が近くに有るにも関わらず、その膨大な数に上る永源寺所蔵の中世文書にすら構築された年代や累代の城主名等を明らかにするような資料は残っていません。したがって縄張り等を示す絵図面もなく、「城屋敷」という小字名が残っているに過ぎません。応仁の乱以降に愛知川沿いに展開する土豪の城砦や館のうちの一つですが、近くにある和南城とともに最も愛知川の上流に位置しています。ここは、伊勢の国に通じる間道が集中しているところで、佐々木氏の部将小倉氏が君が畑越え、八風峠越え、千草越えといった交通の要衝に目付役を置き監視に当たらせた所です。高野城は愛知川の河岸段丘上に有り、この八風峠越え(現在の根の平峠)を滋賀県側に下った通称八風街道と対峙する位置にあり、愛知川が天然の要害となっています。
 近くには愛智郡高野城主小倉右京亮の室で後に信長の側室となり、信長亡き後は秀吉の側室、秀吉が没してからは京都に隠栖したお鍋の方が居住していた「お鍋屋敷」と称される伝承地が有り、こちらの方が有名になっています。しかし、お鍋の方は天正11〜19年に秀吉から高野の近郷で500石の宛行を受けていますが、墓は京都に、遺品は近江八幡市小田に現存しており、高野に居住した確証はないためおおかた後世の作り話に過ぎないと思われます。
 高野城跡へは名古屋・東京方面よりJR東海道新幹線米原駅乗り換え近江鉄道八日市駅下車、京都・大阪方面よりJR琵琶湖線近江八幡駅乗り換え近江鉄道八日市駅下車近江バス永源寺車庫前行きで約35分紅葉橋北で下車(570円)愛知川右岸を下流へ行くと高野神社があり高野の集落に。マイカーでは名神八日市インターから国道421号で約10分、紅葉橋からは同じ。周辺に車を駐車するところがありませんので注意して下さい。
 高野城の石垣
 高野城の石垣

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