最新情報
城郭に関する様々な情報をお知らせします。
先にお知らせしたように、5月24日(土)、史跡案内「安土 信長の城と町をあるく」を開催しました。あいにくの悪天候でしたが、県内外から43名の参加者がありました。人数が少なかったことで、かえって担当者の説明をじっくりと聞くことができ、また直接質問を行なうことができたようです。参加された皆様方、どうもありがとうございました。
受付の様子です。まだ雨は降っていません。
最初に安土宗論の舞台となった浄厳院を訪れました。普段は非公開の本堂内部を特別に見学させていただきました。浄厳院は、織田信長が安土城下に建設した寺院です。栗東市金勝山の阿弥陀寺の僧侶応誉明感(おうよみょうかん)の人徳に感じ入った信長は、これを城下に呼び寄せ、寺院を建立しました。これが浄厳院です。城下に呼び寄せるにあたっては、逆らえば寺領を没収すると脅しており、強制的なものであったことがわかります。
安土宗論は、安土城下で法華宗の僧侶が浄土宗の僧侶に論争を仕掛けたのがきっかけとなった宗教上の論争です。両宗派ともに京都より高僧を呼び寄せ、ここ浄厳院で宗論が行われました。結果は浄土宗の勝利。敗れた法華宗は以後他宗に論争を仕掛けないことを約束する誓約書を書かされます。また詰めかけた大勢の見物人から暴行を受け、袈裟を剥ぎ取られるなど、さんざんな目にあいました。この時の浄土宗の勝利を喜んで鉦や太鼓をたたいて念仏を唱えたのが、今でも毎年10月に行われる「かちどき念仏」の起源といわれています。
この宗論は、当時京都で勢力を誇っていた法華宗の力を削ぐために、信長が仕組んだものといわれています。
重要文化財浄厳院本堂。近江八幡市多賀の興隆寺弥勒堂を移築したものです。興隆寺は天台宗寺院ですが、移築にあたり、天台密教系の本堂様式を浄土宗の様式に改造しています。移築前は、内部を前後に分割して内陣と外陣に区画し、その間を格子扉で区切っていましたが、移築後はその格子を取り払っています。
重要文化財浄厳院楼門。解体修理を行った結果、他から移築されたものではなく、信長が寺を建てる以前からこの地に建っていたものであることが分かりました。中世には、佐々木六角氏の菩提寺である慈恩寺が建っていたといわれていますが、その慈恩寺の遺構ではないかと考えられています。
浄厳院を後にして田んぼの中の道を沙沙貴神社へと向かいます。
県指定文化財沙沙貴神社楼門。 沙沙貴神社は、近江守護佐々木氏の氏神です。全国の神様を書き上げた奈良時代の書物「延喜式神名帳」にも名前が載っています。このあたりは中世には佐々木荘と呼ばれる荘園があったとされ、沙沙貴神社はその核となる神社と考えられます。また、信長から鷹狩りの獲物を与えられた城下町の人々が、そのお礼に神社で能を催したことが「信長公記」に記されています。現存する建物は江戸時代以降に造られたものですが、神社自体は、いろいろな史料から中世からこの地にあったと考えられます。
県指定文化財沙沙貴神社拝殿(手前の建物)・同沙沙貴神社本殿(右奥)。
沙沙貴神社を出て次は伊庭邸に向かいます。
安土町指定文化財旧伊庭家住宅。住友家第2代総理事伊庭貞剛(いばさだたけ)が建てさせた邸宅です。貞剛は蒲生郡西宿村(現近江八幡市)の出身で、司法省を経て住友家に入ります。この邸宅は大正2年(1913)に完成したのち、後に安土村長を務めた貞剛の四男伊庭慎吉が暮らしました。
設計を担当したのはウィリアム・メレル・ヴォーリズです。木造3階建で、洋風の外観に和風を取り入れた、ヴォーリズ初期の作品です。
伊庭邸の前で、担当者から説明を受け、内部を見学しました。
一階の和室部分。
一階の洋室部分。
伊庭邸を出た後は、近江風土記の丘に向かいます。このころから少し雨が強くなってきました。風土記の丘で昼食をとり、各自滋賀県立安土城考古博物館と信長の館を見学した後、午後からいよいよ安土山に登ります。
雨の中安土城の大手道を上ります。安土城跡発掘調査の最大の成果の一つは、築城時の大手道の発見です。幕末に山内にあったハ見寺が焼けた後、この大手道をふさぐようにして郭を築いたため、大手道のルートが変わってしまったのです。その後、近代には山から伐り出した材木を運びだすなどしたため石段が崩壊し、昭和初期には石段の修繕が行われました。その結果、調査前のような、幅の狭い、寺の参道のような道になったのです。
調査で確認された大手道は山の麓から直線で108m、大手門の推定地からは180m直線に進むという特殊な構造をしています。又、石段の幅7m、両側に石敷きの側溝を持ち、その外側に石塁がそびえ立つという、立派な作りであったことが分かりました。
大手道の左側伝羽柴秀吉邸跡で説明を受けます。ちなみに、羽柴秀吉邸跡というのは全くの伝承です。秀吉の屋敷がそこにあったという証拠は何一つありません。あしからず。
伝羽柴秀吉邸跡を出てさらに石段を登ります。
主郭部への入口である黒金門(くろがねもん)です。城内でももっとも大きな石を用いて石垣が築かれています。主郭への入口として特別な意識があったことがうかがえます。
伝二の丸にある信長廟です。安土城は、本能寺の変を経ていったん明智軍に接収されますが、明智光秀が羽柴秀吉に敗れた後、主郭部が焼けてしまいます。それでも信長の息子である信雄・信孝、孫の三法師などがその後も安土入城を果たしており、城が存続していたことが分かります。城が最終的に廃城となるのは、天正13年(1585)に、羽柴秀吉の甥秀次が、隣の近江八幡に八幡城を築いた時です。時代は、織田氏の天下から羽柴氏の天下へと移り変わり、織田氏の天下を象徴する城である安土城はその使命を終えるのです。
安土廃城後は、山内にあるハ見寺が安土山の主人公となります。ハ見寺は伝二の丸の信長廟を守り、信長の菩提を弔いつつ、現在まで安土山で法灯を守りつづけています。江戸時代以降、この信長廟へは、織田信雄の子孫である丹波柏原藩の人々など、様々な人が参拝に訪れています。
伝信長廟につづいていよいよ天主跡へと向かいますが、その前に伝本丸跡で説明を受けます。伝本丸跡と天主跡は、戦前に一度発掘調査が行われている場所です。その時の調査で、伝本丸には屋敷があったことが確認されました。
平成11年度に再び調査を行い、伝本丸跡の建物礎石をすべて確認しました。その結果その建物は、後に豊臣秀吉が御所に建設した清涼殿と同じ平面に復元できることが分かりました。また復元の是非はともかく、この建物が「信長公記」に記されている「御幸の間」、すなわち、行幸を迎える建物であることも確認されました。信長は、安土築城当初から安土への行幸を計画していましたが、天正10年(1582)正月、完成した行幸御殿を家臣たちに見せています。
伝本丸の後はいよいよ天主跡です。ここも戦前に発掘されており、天主の礎石が掘り出されています。
安土城の天主は、建っていた期間が短かった(天正7年完成、天正10年焼失。わずか3年)こともあり、残された記録もほとんどありません。様々な復元案が出されていますが、どれも決め手に欠けるものばかりです。発掘調査でも結局復元につながるような手がかりは得られませんでした。
天主跡を出てもと来た石段を下り、途中から分かれてハ見寺跡へ向かいます。
ハ見寺本堂跡です。ハ見寺は、信長が安土城内に建てた寺です。安土廃城後も存続し、幕末に火事で本堂を焼失してからは現在の場所に仮本堂を移して今に至っています。
信長がハ見寺を建てた理由としては、自分を神として祀らせるためといわれています。しかし、この話は宣教師の記録にしか出てこず、信憑性が薄いとされています。実際のところ、どういう理由でハ見寺を建てたかは謎のままです。
江戸時代のハ見寺は、山の支配権と山麓に領地を与えられ、寺院領主となります。嘉永7年(1854)に火災で本堂や書院・庫裏といった主要な建物を失いますが、焼け残った建物は明治以後に売却されたりして失われ、現在では二王門と三重塔(いずれも重要文化財)が残るだけです。この二つの建物が、信長時代から山内に存在する唯一の建物です。
売却されたハ見寺の建物の内、裏門は東近江市南須田の超光寺の表門(県指定文化財)として今に残っています。
ハ見寺跡を出た後さらに石段を下り、伝羽柴秀吉邸櫓門跡を経て再び大手道に戻ります。そこから最近の調査対象地である大手門周辺地と、昨年度調査したばかりの南面山裾部(大手口〜百々橋口)に向かいます。
大手門周辺地からは大手門以外の虎口が見つかり、合計4つの虎口が石塁上に一直線に並ぶという、城の常識では考えられない構造であることが分かりました。仮説ではありますが、平安京などの都城との類似性が指摘されており、行幸に対応した構造ではないかと考えられています。
昨年度調査した大手口から百々橋口にかけての南面山裾部からは、あらたな虎口が2ヶ所発見されました。この結果、従来城の外郭を形成するものと考えられていた山裾の石垣が、そうではない可能性が高まりました。石垣の裾を通る道も城外の道と考えられていましたが、城内道と考えた方がよいようです。
安土城跡の見学を終えると城と城下町の接点である百々橋を通り、今度は旧城下町の中核である下豊浦地区の見学に入っていきます。このあたりから雨が小やみになってきました。
最初に訪れたのは新宮神社です。
茅葺きの建物は安土町指定文化財新宮神社拝殿です。新宮神社は、安土町内に残る大般若経の奥書から、室町時代から存在したことが確認される神社です。この新宮神社と、同じ下豊浦にある活津彦根神社の参道が、安土城下町の町割の基準線となっていますが、この両社がいずれも城下町以前からこの地に存在していたと考えられることから、城下町の町割は信長が新しく創出したものではなく、すでに存在していた神社の参道を基準にしたと考えられます。城下町の建設過程についてはまだ解明が進んでいませんが、すこしずつ新たな事実が明らかになっています。
新宮神社を出て、下街道を進みます。下街道は、信長が東山道から安土城下へ人を立ち寄らせるために整備した道です。江戸時代は朝鮮通信使が江戸へ向かう時に通ったことから朝鮮人街道の名で知られています。途中、信長が城下に建設した キリスト教の神学校セミナリ ヨ跡に立ち寄ります。
セミナリヨは、安土城の南の堀を埋めて建てられたと史料には記されています。場所についてはいくつか候補地があがっていますが、ここもその一つです。「ダイウス」という地名が残されており、キリスト教の神であるゼウスにちなんだものと考えられることからこの場所をセミナリヨ跡としています。しかし過去に一部発掘調査が行われましたが、セミナリヨの遺構は発見されませんでしあ。他にここより少し北に「主の御座(しゅのみざ)」という地名があり、これもキリスト教にちなんだ地名と考えられることから、こちらの方をセミナリヨ跡と考える人もいます。
セミナリヨ跡から下街道に戻り、さらに先へ進みます。途中「惣構(そうがまえ)どて」の推定地を通過します。現在安土町公民館が建っている付近ですが、江戸時代の絵図に「惣構どて」が描かれており、信長時代までさかのぼると考えられることから、城下町を何らかの意味で区切る施設があったと考えられます。ただし、この「どて」によって、城下町がどのように二分されるかは今のところ分かっていません。
「惣構どて」推定地を過ぎると、今度は常楽寺という地区に入っていきます。常楽寺は琵琶湖の内湖に接する中世以来の港があった集落です。現在は内湖が干拓され、港の機能は失われましたが、唯一残る内湖である西の湖とつながっており、船入の痕跡が残っています。
船入跡の横を通ります。
信長は、城下町を建設するにあたり、常楽寺港の機能を取り込みました。安土に城を築いたのは、一つにはこの港の存在があったからと考えられます。
この後、常楽寺の集落を抜けて安土駅に向かいます。もうすっかり雨もあがりました。悪天候でしたが、お昼の一時を除いて雨に降られなかったのは幸いでした。参加された方々も、大変満足して帰られました。どうもありがとうございました。
○平成19年度特別史跡安土城跡発掘調査スライド発表会を開催しました。
先にお知らせしたように、4月29日(火・祝)に滋賀県立安土城考古博物館セミナールームにおいて、平成19年度特別史跡安土城跡スライド発表会を開催しました。県内外から 84名の参加者があり、熱心にお聞きいただきました。また発表後の質疑応答でも多くの質問が寄せられました。どうもありがとうございました。

まず最初に、「安土山南面山裾部で発見された虎口」と題して、仲川主幹(滋賀県教育委員会文化財保護課)が発表しました。

平成19年度の、環境整備に伴う発掘調査で発見した、二つの虎口についての発表です。あわせて、それらをどのように整備したのかを具体的に紹介しました。詳しくはこちらから。
つづいて、「安土城と徳富蘇峰」と題して、松下副主幹(滋賀県教育委員会文化財保護課)が発表しました。

県道から大手へ向かう交差点に建つ「安土城址」の石碑を紹介し、近代の安土山をめぐる活動について発表しました。詳しくはこちらから。
二つの発表の後、休憩をはさんで質疑応答に移りました。今回発表した虎口を含めての安土城南面の構造や、廃城後の歴史についてなどの質問をいただきました。

安土城南面の構造については、今回の虎口の発見によって城の南限をさらに広げる必要性があると答えました。またそれと連動して、もう一段外側の防御施設、城の内外を画する境界施設の可能性を指摘しました。
廃城後の歴史については、ハ見寺が安土山の領主として、信長の菩提を弔い続けること、いわば信長の巨大な墓標として位置づけられることを述べました。
また、多くの方から安土城跡調査整備の今後の展開についてご質問をいただき、さらなる継続を望む声が寄せられました。それに対しては、現在の県の財政状況も踏まえ、当初20年計画として取り敢えずは終了しなければならないが、県民の皆さんからの強い要望があれば、再び調査整備を行うことも可能であるので応援をよろしくお願いしたいとお答えしました。

ともかく、今後はこれまでの調査成果を様々な形で公開していく予定ですので、どうぞよろしくお願いします。