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シリーズ「淡海の城」(11)−小脇館(おわきやかた)(滋賀県東近江市小脇)

 箕作山に抱かれるような場所に位置する東近江市小脇の小脇館跡は、近江守護であった佐々木宗家の館跡と考えられている遺跡です。「城」や「山城」とは性格の異なる遺跡ですが、近年注目を集めている守護館・守護所遺跡のひとつとして取り上げたいと思います。

 『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、源頼朝が建久元年(1190)に京からの帰途に「小脇」へ投宿し、四代将軍藤原頼経が暦仁元年(1238)に「小脇」の「佐々木信綱御所」に宿泊したという記述が見えます。これらに出てくる「小脇」は佐々木宗家の館をさすと考えられていて、現在の小脇集落付近がその遺跡とされています。集落周辺には、御所・馬ヤケ・コチャ門(東門)・岡門・蓬莱門(南門)・馬場といった館跡らしい地名が残されていて、ここに館があったことをうかがわせます。また、地籍図に見える堀田・惣田という名の細長い田は、館にめぐらされた二町(約220m)四方の濠の名残りと考えられます。

 小脇館跡の推定範囲図 四角く囲んだ線に濠跡が確認されました

 以上のことから、ここが佐々木氏の小脇館跡でほぼ間違いないと思われるのですが、その実態についてはまだよくわかっていません。1979年に実施された濠推定地の発掘結果では、地割りに残された濠跡が幅8〜11m、深さ約2mの規模であったことがわかりました。また濠跡などから出土した土器類は16世紀のもので、観音寺城と石寺の御屋形跡が整備されるまで小脇館が機能していたことを予測させます。しかし、館の内部や周囲に予想される町や村の様子、小脇館跡の存続期間などはまったく未解明です。

 宇多天皇の血筋を引く佐々木氏は、平安時代中ごろに佐々木庄の荘官として近江に土着し、小脇館に居住したとされています。それ以前は、もともとこの地に勢力を張っていた佐々貴山君がいました。実際に、小脇は佐々木庄推定地である安土町の常楽寺・小中・中屋・慈恩寺の範囲から外れたところに位置します。小脇の地に推定されている館跡がいつ頃どのように始まったかは、謎の多い佐々木氏と佐々貴山君の関係にも関わる問題です。

 六角氏は小脇に本拠を置いてきましたが、鎌倉末期に頼綱は金田に屋敷を構えました。金田館と呼ばれたこの屋敷に氏頼は金剛寺を建立し、この寺は戦国期にはしばしば城として機能しました。このことから、六角氏の本拠地は金田館あるいは金剛寺城へ移設されたと解釈する人もいます。

 金剛寺城については、近江八幡市の金剛寺遺跡で確認された遺構群をこれにあてることができますが、安土町の浄厳院の南にある小字「金剛寺(こんごうでら)」に比定する説も昔から唱えられてきました。織田信長が浄厳院を建立した場所には、佐々木六角氏の菩提寺であった慈恩寺がありましたから(現在は大字名にしか残されていません)、その近隣に佐々木氏ゆかりの寺院や城があってもおかしくありません。金田館や金剛寺城の位置については説が一定していませんが、考古資料をふまえるとさしあたっては本拠の小脇館とは別に別館や陣城が設けられたと考えておくのが良いようです。佐々木六角氏が観音寺城と石寺城下町の御屋形を整備するのは、小脇館を廃して以降のことと考えられます。

 さて、全国各地の守護所・守護館の様子は、都市史の立場に立つ研究と発掘調査等によって近年急速に解明が進みました。代表例として、周防の大内氏館跡、豊後の大友氏館跡、美濃土岐氏や越後上杉氏の守護館などがよく知られています。守護所の形態は守護のあり方によってさまざまだったようですが、館跡は一辺100m程度かそれ以上の規模を有する平地式方形館でだいたい共通するようです。小脇館跡もこの点ではよく一致するといえます。しかし、確認された多くの守護館が室町時代から戦国時代前半期に機能したもので、鎌倉時代にさかのぼるものは確認されていません。小脇館が史料が示すように鎌倉時代初めに始まったとすると、全国的にきわめて貴重な例となります。城下町の成立にいたるまでの地方都市発達史を追究する視点ですすめられている中世守護所を研究する立場からは、石寺城下町へ展開する過程を追跡できる小脇館跡の実態解明が切望されているところです。

 小脇館跡へは、JR琵琶湖線近江八幡駅から近江鉄道に乗り換えて、4駅目の太郎坊宮前で下車し、駅から徒歩約15分です。 (伊庭)

太郎坊本殿から眺めた小脇集落 白点線内が小脇館跡推定範囲

 

 

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