○史跡観音寺城跡の調査がはじまります
安土城郭調査研究所では平成16・17年度に史跡観音寺城跡の保存管理計画策定事業を実施し、平成18・19年度には史跡公園として整備するための基本構想・基本計画策定事業をすすめ、県民の利活用を促進するための方向性を検討してきました。安土城郭調査研究所は平成20年3月をもって廃止となり、滋賀県教育委員会文化財保護課に統合され、城郭調査担当という一グループとして、今年度から史跡観音寺城跡の現地調査に着手します。
ご存じのとおり、史跡観音寺城跡は近江守護の佐々木六角氏が戦国時代に居城として整備した巨大山城として知られており、特別史跡安土城跡とともに近江風土記の丘歴史公園を構成する史跡の一つとして親しまれてきました。この観音寺城跡の特徴を大胆にまとめてしまうと、規模の大きさ、郭配置の特異さ、石垣の多用という3点に集約することができます。そのなかでも、山中のいたることころに残された大規模な石垣は、誰にでも容易に目にすることができる最も顕在的な特徴といえます。
全国に分布するほとんどの中世城郭は、堀を掘り込み、土塁を盛り上げて築城されています。それが、天守閣・瓦と白壁の建物・石垣で構成された一般になじみ深い近世城郭へ転換した最初の城が、織田信長が築いた安土城でした。ところが、史料によると観音寺城の石垣普請が始まったのは安土城より40年は早かったと考えられます。それも観音寺城跡にはきわめて多くの石垣が築かれているのです。中世城郭では城の一部に小規模な石垣を積んでいることはありますが、観音寺城のように大規模な石垣をあちこちに多用した例は他にありません。つまり、安土城で完成されたといわれている近世城郭の石垣ですが、石垣だけは安土城より先に観音寺城で大規模に始まっていたのです。しかし、どうしてここに石垣が築かれたのでしょうか、それはまだわかっていません。
史跡観音寺城跡 伝伊庭邸跡の石垣
史跡観音寺城跡 閼伽坂見付の石垣
石垣は観音寺城跡が秘める最大の謎の一つですから、その保存においても十分な注意を払う必要があります。今年度からはじまる史跡観音寺城跡の現地調査は、この石垣の基礎的な実態調査から実施します。石垣基礎調査は4年間の計画で繖山山中にある石垣の一つ一つについて、位置と規模、積み方、崩壊の程度などを記録します。今後の補修計画を立てる際の資料として役立てるとともに、現時点での状況記録としても重要な意味があります。また、今年度は石垣調査とともに一部で発掘調査を実施する計画です。調査の場所は調整中ですが、9月頃に調査を始める予定です。(伊庭)
史跡案内「史跡観音寺城跡を探る」を開催します。詳しくはこちらをどうぞ。
平成19年度の百々橋から大手口の南面山裾郭環境整備工事に伴う発掘調査で新たに検出された2箇所の虎口の整備と大手西枡形虎口の南面石垣の復元整備が完了しました。
平成19年度整備対象地遠景(左が百々橋口 右が大手口)
まず、平成18年度に一部復元している大手西枡形虎口南面石垣(石垣133)をさらに西へ15m発掘調査を行い、築城時の石垣の復元を行いました。等間隔に配置される巨石が2石新たに見つかり、鏡石状の巨石があわせて5石となりました。大手の荘厳さが垣間見れたら幸いかと思います。
大手西枡形虎口から西へ延びる石垣
次に、速報安土城(12・13)で報告しました2箇所の虎口は、石垣・石段の復元と虎口内の平面整備を行いました。西虎口奥の踊り場には解説板を設置しました。
東から見た2箇所の虎口 手前が東虎口 奥が西虎口
整備を終えた南面山裾部東虎口
整備を終えた南面山裾部西虎口 虎口内の踊り場から櫓台にのぼる石段
道からみた西虎口 奥に解説板が見えます
解説板
今回の整備工事は、大手のように全面整備というわけにはいきませんでした。石垣に使える石が保管していたものも含めてほとんど無くなってしまい、虎口と崩壊しそうな部分のみに限定せざるをえませんでした。土羽で石積みが途切れている部分がありますが、現状で十分維持できると判断し、敢えて復元しませんでした。将来、積み石が確保でき、復元の要望が高まってきましたら行いたいと思っています。 (仲川)
大手口の西枡形虎口から百々橋口までの南山裾には、東西方向に狭く長い郭が続いています。郭の南面石垣に沿って側溝があり、百々橋から大手まで内堀との間は通路となっていることが、平成13年度の発掘調査で明らかになっています。
平成19年度は百々橋−大手間の南山裾郭の環境整備工事を行っていますが、この工事に先立って発掘調査を行ったところ通路に面して新たに虎口が造られていることが分かり、さらに石垣復元工事で築城時の築石まで掘り下げている最中にもう1箇所虎口が見つかりました。2つの虎口は、百々橋−大手間のほぼ中間にあって、上下2段に分かれる郭の通路に面する下段郭のそれぞれ西端百々橋側と東端大手側に位置し、両者は約23.5m離れています。今回は、西端で見つかった虎口を「西虎口」、東端で見つかった虎口を「東虎口」と仮の名前をつけました。
西虎口の幅は約4.5mで、入り口に石段が1段設けられ、石段の内側は堅く踏みしめられたゆるい上り勾配の通路状です。その奥は西の上段郭に取り付く石段の踊り場となっています。虎口西端の石垣沿いには、側溝の縁石を兼ねた土壁の土台となる地覆石(狭間石)の石列と柱と柱の間の距離(柱間寸法)約1.8m(6尺)を測る礎石2基、礎石抜き跡1基が残っていました。また、礎石が小さく土壁が付くことからこの建物は薬医門や棟門のような重厚な門ではなく、東西方向に棟を持つ梁行き2間、桁行き2間以上の建物で、その西側2間分が出入り口となっていたと考えられ、この虎口の東側は通路に面して土塀があったとみられます。
虎口内の1段上がった踊り場からは、西向きに上段郭へ上がる石段が設けられていました。石段は、幅1.7m、奥行き2.7mで、最下段と南辺に側溝が付き、南東隅で虎口西端の側溝と繋がっています。この石段の北側には用途・目的等が分からない石段と同じ勾配を持つ幅1.2mのスロープが付いています。石段を上がった所からは百々橋方面と大手口方面の両方が見渡せます。柱を受ける礎石は残っていませんが虎口との位置関係などから、物見櫓のような建物があったと想像しています。
西虎口
東虎口の幅は約4.5mで、入り口に石段が3段分残っていました。石段踏み石は60p〜1m大の大石を用いた踏み代幅が90pもある見栄えのする石段です。虎口東側に幅約30pの石組み側溝が付き、南側の通路側溝に繋がっていたと思われます。側溝奥に60p大の礎石とみられる石が検出されましたが、対になるものが見つからず、門の礎石かどうか不明です。またこの礎石様の石の上面と西虎口奥にある踊り場の面の高さがほぼ同じであることから、西虎口奥の踊り場から東虎口までの間は、当初の遺構面がほぼ残されているようです。
東虎口
東西両虎口は、間口は同じですが、踏石や虎口内の様相に違いがあることから、用途が異なるかもしれません。
2箇所の虎口が見つかるまでは百々橋から大手口の前を通る通路は安土城の外周で、一般の人も通行できる城外路と考えていました。しかし、西虎口は重厚な門ではなく防御性の弱い平屋の建物のようであること、さらに西虎口よりも立派な東虎口が見つかったことから、通路は城内路であることが確実となりました。このため安土山南面山裾の通路は、西は百々橋口、東は下街道に面した江藤の丘あたりで一般人の通行を禁止とするなんらかの閉鎖施設を考えざるをえなくなりました。あらためて安土城の南の外郭が内堀になるということを示す遺構の発見となりました。
さて、平成元年度から20カ年計画で始めました安土城跡調査整備事業のうち平成4年度から始めました環境整備につきましては、今年度をもちまして終了します。整備工事を行いました範囲は、安土城跡全体の約14%ほどです。まだまだ解決されていない遺構があるほか、未調査地区も広範囲にあり、調査するたびに新しい発見と新たな疑問点が出てくると思います。これら未知の部分の解明については私たちの後身に託して、さらなる「信長の夢」を追求していただきたく存じます。 (仲川)

虎口周辺の遺構平面図 PDFファイルでのダウンロードはこちらから(右クリックして「対象をファイルに保存」を選択してください)
○以前お知らせしましたとおり、11月3日(土・祝)に発掘調査現地説明会をおこないました。 詳細はこちらから
○瓦のおはなし〜平成18年度特別史跡安土城跡スライド発表会から
4月30日(月・祝)に実施したスライド発表会において、仲川主幹(滋賀県安土城郭調査研究所)が城郭瓦をめぐる最新の研究動向について発表しました。
1.瓦研究の現状
瓦は古代においては寺院や役所などの限られた建物にしか使われていませんでした。それは、古代の瓦が非常に重く、土台となる大きな建物が寺院や役所しかなかったためです。そのことは逆に、瓦が葺かれたこれらの建物が他とは異なる権威を持っていることを示すことにもつながりました。
こうした状況が長く続いていきますが、安土城以降、城郭にも瓦が使用されるようになります。しかし、それ以前に築かれた坂本城や勝竜寺城(京都)、多聞城(奈良)でも瓦が使われていることが明らかにされており、城郭瓦に関する理解も見直しが迫られています。そもそも古代瓦の研究に比して城郭瓦の研究はまだ始まったばかりであり、城郭瓦そのものの詳細なデータが出揃っていないのが現状です。
そこで、まずは安土城の瓦についての詳細な分析を行い、その上で他の代表的な織豊期城郭の瓦のデータと比較することで城郭への瓦導入の過程について検討を加えたいと思います。
2.安土城の瓦
安土城の瓦については軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦ともに、三種類の大きさがあることが分かりました。まず軒丸瓦について文様を見ると、19種類に分類することができます。このうち8種類が、安土城のために焼かれたオリジナルの瓦で、他は寺院の瓦等を転用したものと考えられます。安土城オリジナルの瓦もまた大中小の三種類の大きさに分かれます。一番大きなものは瓦当部の直径17cm、文様はすべて左巻きの三巴文です。中くらいのものは、直径15cmで文様は右巻きの三巴文と、一つ葉沢瀉(ひとつはおもだか)文です。そして一番小さなものは直径12cmで右巻き三巴文と菊文です。
つづいて軒平瓦を見ると、19種類に分かれる文様のうち、9種類が安土城オリジナルと考えられます。大きさは三種類に分かれ、一番大きなものが瓦当部の長さ28〜28.8cm、中くらいのものが26cm、一番小さなものが23cmで、文様はいずれも唐草文や飛雲文、飛鳥文のバリエーションです。
これらの瓦が城内のいずれの場所から出土したかを調べると、安土城オリジナルの瓦は黒金門より上の主郭部に限定されていたことが分かります。さらに詳細に見ると、大きさによって使われていた場所が違うことが分かりました。一番大きな軒丸瓦・軒平瓦は天主周辺から出土しています。逆に黒金門跡からは中くらいの瓦が出土しており、大きなものは出土していません。そして一番小さなものは伝三の丸跡の下からのみ出土しています。このことは、信長が場所や建物によって瓦を使い分けていたことをうかがわせます。一方で主郭の外ではほとんど瓦は使われておらず、伝羽柴邸や伝前田邸などは瓦葺きではなく、板葺き(こけら葺き)ではないかと考えられます。
安土城跡から出土した軒丸瓦(左:大きなもの 右:中くらいのもの)
3.安土城より先に造られた城の瓦
平成17年に長浜市教育委員会が長浜城跡出土の金箔鯱瓦についての新聞発表を行いました。長浜城は安土城に先行する城であり、安土城以前に金箔鯱瓦が使用されていた可能性があるとして話題になりましたが、同時に出土した軒丸瓦はどうみても江戸時代をさかのぼるものではなく、金箔鯱瓦についても山内一豊以降のものとするのが妥当なようです。
この他、安土城以前の城郭で瓦の使用が確認されるものに、岐阜城、坂本城、多聞城、勝竜寺城があります。岐阜城については山麓の千畳敷から金箔瓦が出土していますが、信長時代のものではなく、それに続く信忠時代のものではないかとされています。多聞城の瓦は興福寺のものと同じ文様があり、南都系寺院の瓦が転用されていたようです。坂本城や勝竜寺城についても同様に南都系の寺院瓦が主流で、その城のために造られたオリジナルの瓦は無いようです。
このように安土城以前の城郭においては、寺院の瓦を造る工房に発注するか、寺院の瓦を転用して使っていたと考えられます。
4.安土城の瓦と同じ瓦
安土城オリジナルの瓦と同笵(文様を彫った笵木が同じ)の瓦は、大溝城(高島市)と松ヶ島城(三重)のものが確認されています。大溝城の瓦は安土城のものとは使われている粘土が異なっており、笵木だけを借りて別の場所で瓦を焼いた可能性があります。一方松ヶ島城の瓦は、蒲生氏郷が松阪城を築城した際に松ヶ島城の建物を移築したとされていますが、その松阪城跡で見つかったものです。笵木の文様がすり切れたりするような傷がなく、新品同様の笵木を使っていることと、使われている粘土が安土城のものと同じであることから、安土城と同じ工房で焼かれた可能性が高いと思われます。ただし、この瓦には「天正七年」という銘が刻まれていることから、安土城の瓦を制作していたときにストックしていたものか、安土城の天主が完成した天正7年(1579)にいまだ安土城の瓦を造っている工房が稼働していたことが考えられます。ともかく、大溝城・松ヶ島城ともに安土城と同時期の城であり、安土城の瓦をリサイクルして使用したのではないことは確かです。
安土城の瓦をリサイクルしたと考えられるものとしては羽柴秀次の八幡城(近江八幡市)がまず第一にあげられるでしょう。八幡城は山頂の主郭部と山麓の秀次館とに分かれますが、山麓では八幡城オリジナルと考えられる瓦が出土しており、山頂部からは南都系寺院の瓦と、安土城オリジナルと同じ文様ですが大きさの異なる瓦が出土しています。少なくとも安土城の主郭部で使用されたオリジナル瓦もしくは同笵瓦でないことは確実で、いまだ出土点数が少ないことから今後のさらなる調査に期待したいところです。
5.これからの城郭瓦研究
城郭瓦の研究はスタートしたところです。今後は古代瓦の研究で進んでいるような、瓦窯や工人集団、工房についての研究を進めいくことが課題です。そのためにもさらなる資料の発掘と詳細な調査分析が必要となります。
平成16年度から発掘成果を基に進めてきた大手門周辺地区の整備が、公衆便所部分を除いて完了しました。平成16・17年度で東西石塁より上部側を整備し、平成18年度では、東西石塁前の広場を中心に整備を行いました。大手前広場は発掘調査によって南北44m、東西100m程であったと推定されていますが、現在はその中央に町道が走っているため、部分的な復元となっています。なお、大手門そのものは後世の改変によりほとんどの礎石等が失われており、その形状を知る手がかりは得られていません。それでは整備が完了した大手門周辺の様子を御紹介します。 (中島)
大手正面にある総合案内板
大手前広場東側
大手東側(下側石積が東側石塁と虎口 東側石塁が途切れた先が大手門推定地 上石積が東上段郭と・虎口
大手東石塁裏側の通路
大手前広場西側(整備前は駐車スペース 中央付近が大手門推定地)
大手西側石塁(東から)
大手西側平虎口
大手西虎口(東から)
大手西虎口(西から)
大手西石塁(西から 右側公衆便所は平成20年度に移転予定)
○史跡案内「史跡観音寺城跡と東山道をめぐる旅」を実施しました。
○史跡案内「安土城跡・安土城下町と朝鮮人街道の旅」を実施しました